ランドコンピュータが創業した1971年、情報処理という分野は学術面においても産業面においても非常に新しく、また大いに期待される分野でした。一方で、新しすぎるがゆえに認知や理解が追いつかない面も多く、「コンピュータ」が「電子計算機」と言い換えられることさえありました。そのような状況下で、勃興期にあったソフトウェア開発という産業を国の基幹産業へと成長させるため、自ら貢献しようという意気込みをもつ人材が集まり、当社の基礎が築かれていきました。
ランドコンピュータの前身は、1971(昭和46)年1月に設立された株式会社日本コンピュータ学院研究所です。日本コンピュータ学院研究所の母体である日本電子計算機専門学院は、1967(昭和42)年に各種学校として開校し、のちに名称を変更して「日本コンピュータ学院」となりました。所在地は東京都渋谷区神山町でNHKと井の頭通りを挟んだ向かいでした。
この頃、コンピュータ・プログラミングを学ぶ場を専門学校や大学だけでなく、高校にも拡大することが検討されていました。文部省(現・文部科学省)の主導により正式に決定され、1970(昭和45)年より、高校の商業科に情報処理科を設置することが可能になりました。
この決定により、日本の高校で初めて情報処理科を設置したのが、学校法人渋谷教育学園渋谷女子高等学校(現・渋谷中学高等学校)です。同校の校長を務める田村哲夫はのちに当社の発起人となり、創業から1975(昭和50)年まで社長を務めることになります。
田村哲夫は情報処理科の設立前に、コンピュータについての情報収集や調査を行っていましたが、その過程で日本コンピュータ学院の事務長および理事長と知り合いました。田村哲夫が理事長に対して、日本コンピュータ学院を個人経営ではなく学校法人にする選択肢もあるとアドバイスをしたことから、日本コンピュータ学院を渋谷教育学園に編入して学校法人とする話がまとまり、1970(昭和45)年に実行に移されました。
日本コンピュータ学院が渋谷教育学園に編入されたのと同時に、学院長に糸川英夫博士が就任しました。
糸川博士は「日本のロケット開発の父」と称される、航空工学の第一人者でしたが、電子工学の発展にも大いに期待をかけていたと伝えられます。
糸川博士は東京帝国大学(現・東京大学)工学部の出身で、同大の教授を経て、1967(昭和42)年に「組織工学研究所」を設立し、さまざまな問題提起とその解決に向けた研究や提言を行っていました。
田村哲夫は東京大学法学部の出身で、大学の同窓であることから糸川博士と知り合い、組織工学研究所が主催する勉強会の会場として、日本コンピュータ学院の教室を提供していました。
糸川博士が日本コンピュータ学院の学院長に就任したのはそうした縁と、「コンピュータ」という今後の成長分野を支える人材育成への期待、そして田村哲夫の求めによるもので、その後当社が創業した際には、糸川博士が取締役に就任しました。
日本コンピュータ学院で講師として採用された職員の中には、ソフトウェア開発による起業を目指す者もいました。学院の入学志願者が減少して教育事業が縮小に向かう中、起業志向の強い職員が集まって分離・独立し、新たに「株式会社日本コンピュータ学院研究所」が設立されました。1971(昭和46)年1月13日のことで、ソフトウェア開発を事業目的としたこの研究所が、のちのランドコンピュータです。
発起人は田村哲夫、田村邦彦、田村秀雄、田村ラク(有限会社三豊代表取締役)、白石昌治、水口英明、神原康治の7名、本社を東京都渋谷区猿楽町3番7号に置き、資本金は1000万円でした。代表取締役は田村哲夫、取締役には糸川英夫博士が就任しました。
日本コンピュータ学院の講師陣には日立製作所出身の技術者が多数名を連ねていましたが、そうした人材は、日本コンピュータ学院研究所が設立されてからその社員となり、当社の創業初期の技術的な核となっていきました。
1971(昭和46)年6月17日、日本コンピュータ学院研究所は社名を変更し、「株式会社ランドコンピュータ(英文表記:R&D COMPUTER CO.,LTD)」となりました。名付け親は糸川英夫博士です。糸川博士が米国シンクタンクのRAND Corporationの客員として技術開発に従事していた経験があることから、社名にはランド(RAND)を冠し、コンピュータを通じて最新の技術を研究し、社会の発展に貢献していくという理念が込められています。
当社の創業初期の代表的な仕事としては、金融機関のシステム開発が挙げられます。当時、金融機関は事務処理の効率化を目的とするオンラインシステムの構築が本格化していました。
当社では創業まもない頃から富士通株式会社を通じて東京銀行(現・三菱UFJ銀行)のシステム開発を受託し、業務にあたっていました。技術者は日本コンピュータ学院時代に講師として採用された人員のほか、同学院の卒業生を採用して育成のかたわら開発要員として配置していました。当初の開発要員はわずか5名でした。
第1次オンラインシステムと呼ばれるこの業務において、当社に対する顧客の評価は高く、いったん開発が終了し、1977(昭和52)年に同銀行の第2次オンラインシステムの開発が始まると、再び富士通を通じて当社が開発業務を受託し、20名体制で対応しました。
創業から半世紀が経過した現在も、ネットバンクなどを含む金融システムの開発は当社の主軸をなす事業のひとつであり、顧客から信頼を寄せられていますが、それはシステムの完成度への評価とともに、創業当時からの積み上げによって当社が銀行業務とそのシステムを熟知していることが奏功しています。そういった意味で、現在好調な金融システム開発事業は、この時代にすでに基礎が築かれていたといえるでしょう。
金融システムの開発と並ぶ創業時の代表的な仕事に、官公庁関連のシステム開発があります。代表的なものとして、電電公社(現・日本電信電話株式会社)の販売在庫管理システム「DRESS」が挙げられます。これは1972(昭和47)年に当社が富士通株式会社より初めて直接契約によって受注した仕事です。
ほかには、大蔵省大臣官房(1972/昭和47年)や、大蔵省主計局(1975/昭和50年)からの受託による開発業務などがありました。
当時は受託業務の受注に注力しており、これらの仕事も懸命な営業努力によって獲得した仕事でした。
また、糸川英夫博士が経営する組織工学研究所との共同事業として、「PM(プロフェッショナルマネジメント)講座」の名称により、セミナー事業も展開していました。
創業初期のシステム開発の環境は、現在と大きく異なっていました。コンピュータといえば壁一面を覆うような非常に大型の機器を指し、コンピュータの入力装置となるキーボードやディスプレイは装備されていませんでした。入力はほとんどがパンチカードによりカード読み取り機から行われました。
大型であってもコンピュータのメモリ容量は現在とは比べものにならないほど少なく、1メガバイト(MB)程度にとどまっていました。
また、ハードウェアとプログラムとのやりとりを媒介するOS(オペレーティングシステム)は徐々に進化していましたが、データ管理プログラムなどのいわゆるサービスプログラムは整備されていませんでした。
これらの開発環境により、プログラム作成はもとより、テストデータ作成やテスト実施などの一連の作業には非常に時間と手間がかかりました。とくにグラフィックの制作などはその最たるものでした。当社では証券会社向けの株価チャートの制作も請け負っていましたが、その業務には多大な労力が費やされていました。
この頃の大型コンピュータは非常に高額であったため、当社をはじめとするソフトウェア開発事業者は、自前でコンピュータを所有するのではなく、コンピュータを所有している顧客企業に常駐して業務にあたるのが一般的でした。
また、データを入力する媒体としては「パンチカード」が用いられていました。そのためシステムエンジニアやプログラマーといった職務のほか、パンチカードを作成するパンチャーという職務があり、そのパンチカードを顧客企業まで運搬する人員も確保する必要がありました。
データの送受信が可能なネットワーク環境はありませんでした。
現在、ソフトウェアやネットワークで実現していることを人力でしていたために、開発に関連したさまざまな付帯作業が発生し、現在よりも多数の人員を配置して、細かく役割分担しながら作業を進めていました。
大型汎用機FACOM230-60
(出典:一般社団法人 情報処理学会Webサイト「コンピュータ博物館」)
パンチカード
カード読取装置
(出典:一般社団法人 情報処理学会Webサイト「コンピュータ博物館」)
当社の代表取締役は創業時より田村哲夫が務めていましたが、一方で田村哲夫は、渋谷女子高等学校の校長でもありました。しかし1975(昭和50)年、法改正によって学校長の職にある者が企業経営を行うことが認められなくなりました。そのため田村哲夫は当社の代表取締役を辞任し、代わって哲夫の弟にあたる田村秀雄が当社に入社し、同年10月1日に代表取締役に就任しました。
当時の取締役は水口英明、糸川英夫博士、椎名素夫、鈴木孝、末信尚之、西村洋三という顔ぶれでした。
パンチャー作業風景
創業後の基盤づくりが一段落し、業務が活発化するにつれて、社の経営方針や就業規則、組織体制、教育体制、ひいては将来像など、さまざまな問題が顕在化するようになりました。例えば就業規則の運用ひとつにしても、部署や勤務地によって解釈の仕方が異なるといった事態がみられるようになりました。
しかし当社では、管理部門を除く社員の多くが自社勤務でなく、複数の派遣先企業にそれぞれ常駐していたため、社員同士が話し合う場をタイムリーにもつことが難しく、それが問題解決を遠ざける一因となっていました。
1975(昭和50)年頃になると、そうした状況への危機感がつのり、問題を具体化し、議論を通じて一つひとつの問題に対する全社横断的な結論と解決策を導き出す機会の必要性が認識されるようになりました。
そこで結成されたのが「木曜会」でした。これは主任以上の社員を対象にメンバーが一堂に集まり、それぞれが持ち寄った問題について話し合い、解決を目指す会合です。中でも優先的に取り組むべきとして議論されたのは、「いかにして社員の退職を食い止め、定着率を上げるか」という問題でした。
当時、積極的に人材採用を行ってはいたものの、退職者があとを絶たず、社内では「50人の壁」という言葉がささやかれるほど、社員の定着は難問でした。
創業以来、長らく悩まされてきた社員の早期退職に歯止めがかかり、定着率が上がるきっかけとなったのは、社員の配置法を変更したことと、直接契約の増加でした。
社員が退職するのは、問題を抱えても同じ職場に上司がいなかったり、あるいは上司が多忙で相談に応じられないことに、原因の多くがあると考えられていました。また、顧客企業に常駐して業務に従事する場合、作業手順や仕様変更などにおいて顧客の意向が優先されがちであることが、当社社員の作業時間を圧迫し、不規則な勤務を生じさせるだけでなく、指示系統に混乱を生じさせることも多いので、それを改善し、社員の退職を食い止めようというのが木曜会の結論でした。
そこでランドコンピュータ側が業務のイニシアチブを取りやすくするために、社員を個人または少人数で派遣先に送り込むのではなく、まとまった人数のチームとして派遣し、自社のリーダーが業務管理の主導権を握れるように変更しました。
同時に、経験の浅い新入社員は他社に派遣せず、社内での育成を優先するために、その育成環境としても機能する開発部を社に設置し、同部の仕事となる受託案件の獲得に注力するようになりました。
さらに、不明瞭な指示系統の整理を目的として、当時は公然と行われていた顧客企業との二重・三重の請負契約を解消し、自社と顧客企業との間に他社が介在しない直接契約を、努めて増加させるようにしました。
これらの対応によって、それまでの複雑で不透明だった指示系統がシンプルで明確なものへと置き換えられ、社員が実務に専念できる体制が整えられました。
一方で、派遣先で業務に従事している社員が自社に戻って社長や専務と面談を行える「帰社日」を設けることにより、いっそう風通しのよい環境がつくられ、業務上はもとよりそれ以外の問題が生じた場合も、相談によって解決の糸口がつかめるように配慮しました。
こうした施策はいずれも木曜会で出されたアイデアをもとに構築されたものですが、それらが一定の成果を生み、社員の定着率は目に見える形で上昇していきました。
このようにして、ほかにも多くの成果を残した木曜会は、それぞれの課題が解決されていくにしたがって発展的に縮小され、1982(昭和57)年に本社が渋谷に移転した頃には、すでに姿を消していました。
三建設備工業大阪営業所(大阪天満宮)
田村秀雄社長
創業以来、もっぱら顧客企業からの請負業務により事業を展開してきた当社において、初めて自社で企画開発し、完成に至った製品が現れました。
「COBOL プリコンパイラMeta/L」といい、COBOL言語による記述のうち、共通性のあるパターンをライブラリ化し、必要に応じて使用することで、開発プロセスの標準化と効率化を促すツールです。コマンドの記述方式がCOBOL言語より自然言語に近く扱いやすいため、新人プログラマーでも効率的にプログラミング作業を進められるといった利点があります。
完成したのは1976(昭和51)年ですが、プログラム作成にフレームワークの概念を持ち込み、作業の標準化を可能にするという点で、社内ではもちろん、当時の一般的な開発環境に照らしても非常に画期的なツールでした。
開発の背景となったのは、「脱・下請け」という構想でした。自ら製品提供を行うことで、請負とは異なる新機軸の事業を開拓しようとしたのです。
「COBOL プリコンパイラMeta/L」は、社内で使用したのちに、顧客企業に対してテスト使用を勧めましたが、発想が新しすぎたためかなかなか受け入れられず、発売には至りませんでした。
しかし、この経験が自社の開発力を確認し、自信を深める機会となったのは間違いなく、のちにコンシューマー市場に向けて発売された「まんてんくん」や「にこにこぷん」シリーズ(ともに1983/昭和58年発売)に代表される自社企画製品へとつながる基礎が、ここで築かれました。
幼児用学習ソフト「まんてんくん」
現在、当社の社是となっている「こころできまる」は、毛筆による書が存在しますが、これは当時の会長であった田村哲夫が1976(昭和51)年頃に小林大祐氏より譲り受けたものです。
小林氏は当社の得意先である富士通株式会社において1976(昭和51)年から1981(昭和56)年まで社長、その後会長を務めた人物です。もともと技術者であった小林氏は、『ともかくやってみろ 私の体験的経営論』というタイトルの著書を残していることからもわかるように、体験と挑戦を重視する経営哲学の持ち主としても知られています。
本に書いてあることや他人から聞いたことを鵜呑みにせず、駄目だと思ってももうひとがんばりしてみようという意味をもつ、「ともかくやってみろ」という言葉は、富士通社内のみならず当社にも浸透しており、経営や実作業の場面でしばしば引用されました。
当社と富士通とは資本関係こそありませんが、当社創業メンバーの一人、水口英明が富士通と強いパイプをもち、多数の案件を受注したことから、創業当初より現在に至るまでの長きにわたり良好な関係を維持してきました。「こころできまる」は、当時の企業風土を今に伝える言葉であるとともに、富士通とランドコンピュータの協力関係が如実に反映された社是であるといえるでしょう。
小林大祐氏
(提供:富士通㈱)
社是「こころできまる」
当社の創業初期にあたる1970年代、独立系のソフトハウスにおいて「技術者を育成する」という発想はえてして軽視されがちでした。採用した人材が短期間で退職してもあまり問題視せず、新たに採用を行って人材をどんどん入れ替えていった方が、若く安価な労働力の確保につながり、結果的に収益性が向上すると公言した経営者もいたほどです。
しかし当社はそのような経営方針をよしとせず、採用人材の育成と定着を何よりも重視しました。社員が教育と実践によって成長し、社の将来を支える柱となるのを理想としたのです。
当時の経営陣はつねづね「これからは人を教育することが社の将来をつくることだ」と言っていたといいます。情報産業のような知的サービス業においては、資本に代わって「人」が、会社にとって何より大切な財産であると考えていたのです。また、天然資源の乏しい日本において、人的資源の結集ともいえる情報産業を自ら拡大させ、国の基幹産業に育て上げたいという思いも込められていました。
当社の創業初期に社員の早期退職が大きな問題となり、それを食い止める方策が真剣に議論されたのも、このような考えによるものといえるでしょう。
創業から50年を経たランドコンピュータにおいて、かつて提唱された「人こそ財産である」という思想は、社の成り立ちの核をなすものとして今も引き継がれています。
金融や公共団体などの業務分野のシステム開発によって基盤を築いたランドコンピュータは、次に、システムの企画・構築から運用までを包括的に提供する、システムインテグレータとしての成長を目指します。一方で、予測されるパソコン時代の到来に向けて製品開発の道を探ったことで、パソコン上で動作する学習ソフトなどのオリジナル製品も誕生し、社内は活気づいていきました。1980年代の終盤には、情報通信市場の拡大と好況の波にのって業績を伸ばし、「強く大きい会社」への成長に邁進するようになりました。
1980年代に入り、当社の事業は拡大を続けていました。定款の「目的」の項目は、創業時に「教育用プログラム学習組織の研究開発ならびにその販売」「教育、学習用事務計算機の研究開発ならびにその販売」「上記に付帯する一切の業務」という3項目が記載されていましたが、1982(昭和57)年9月に定款を改訂し、「電子計算機ソフトウェアの研究開発ならびに販売」「事務合理化システムの開発と販売」という2項目を新たに追加して、より実際の事業の方向性と合わせる形で整備しました。
また、同年11月には事業拡大にともない、本社を渋谷区神宮前より移転し、渋谷区神南1‒19‒4(日本生命アネックス)を所在地としました。
日本生命アネックスビル(渋谷)
自社で企画開発を行ったものの、発売に至らなかったソフトウェア「COBOL プリコンパイラMeta/L」が存在したことは1章で述べましたが、その流れを汲んだ自社企画製品が2点、1983(昭和58)年に完成しました。
ひとつはビジネスソフト「カラーグラフNo.1」です。これは3色のペンを選択し、グラフなどを記述するXYプロッターを制御するためのソフトウェアです。共和システムとの共同事業であり、ソニー株式会社から委託を受けて同社のパソコン用製品として開発が進められました。完成後はソニーへの納品となり、自社販売ではありませんでしたが、当社が手がけた初のコンシューマー向け製品となりました。
もうひとつは幼児や児童向け学習ソフト「まんてんくん」です。
これは園児向けの教育ソフトを自作して、各地の幼稚園に展開していた塾講師・福田豊士氏と、共同開発を行ったソフトウェアです。
きっかけは、福田氏の制作による教育ソフトを使用して、園児が学習する様子がテレビ番組で紹介されたことでした。それが社内で話題となり、当社社員が大阪在住の福田氏を訪ねて交渉を重ねた結果、共同開発が実現することになりました。
ソフトウェアの内容は算数や記憶力、判断力など、幼児期の多様な学習能力を支援するもので、社内で希望者を募り、専任の制作部門を設置して音や映像の造り込みを進めました。
当時はパソコンのメモリーが非常に少なく、データ量を抑える必要があったため制作は難航しましたが、同年7月には完成し、3本組の幼児用ソフト1タイトルと、2本組の小学校低学年用ソフト1タイトル、計2タイトルを揃えて発売にこぎつけました。映像や音声が穏やかなため子供が安心して使用でき、今でいうAI機能も備えていました。
ちょうどその頃、従来より低価格となる10万円程度のパソコンが登場し、家庭への普及が進んだことが追い風となって、「まんてんくん」の売れ行きは好調な出だしとなりました。
しかし、発売から1年ほどが経過した頃に他社が参入するなどし、事業は縮小に向かいました。
一方で、「まんてんくん」の発売直後から、「お母さんが赤ちゃんを膝にのせて遊べるようなゲームを作ろう」という構想のもと、新たなコンシューマー製品の開発が始まっていました。カセットテープに収録するパソコン絵本です。コンテンツはNHKの「お母さんといっしょ」に登場する「にこにこぷん」を使用することになり、NHKにつてのあった社員がNHKと交渉して、キャラクターの使用権の許諾を得ることができました。
このパソコン絵本は、0〜4歳児向けの知育ソフト「にこにこぷん」シリーズとして5タイトルを揃え、1984(昭和59)年2月に発売しました。
「にこにこぷん」シリーズでは、パソコン絵本と併行してファミリーゲームの開発も進められました。こちらは年齢を問わず家族でコミュニケーションを取りながら楽しめるゲームとして3タイトルを揃え、パソコン絵本と同時に発売しました。
1986(昭和61)年には、ゲーム感覚で日本の地理を学べるソフト「日本縦断」を発売しました。これは小学校で学習する内容をベースにしたもので、パズルや検索機能を使いながら家族で遊べるゲームです。当社が「まんてんくん」や「にこにこぷん」シリーズを手がけてきたことで「教育ソフトのランドコンピュータ」というイメージが醸成されたこともあり、「日本縦断」の開発過程はパソコン専門誌の誌面で紹介されました。
「まんてんくん」が教育ソフトランキングで1位を獲得
(1984年)
ゲームソフト「日本縦断」の起動画面
1980年代はJRやNTT各社の発足に象徴されるように、国有企業の民営化が着々と進められましたが、そうした国全体に影響を及ぼす変化の波は、当社とも無縁ではありませんでした。
1982(昭和57)年に政府が「国鉄緊急事態宣言」を発表したのに端を発し、日本国有鉄道(国鉄)では職員の配置適正化を急ピッチで進め、余剰人員の再就職や再教育の受け入れ先を探していました。それにともない、当社では社団法人情報サービス産業協会(JISA*1)を通じて国鉄職員を受け入れ、情報処理技術者への職能転換を支援することを決定しました。
当時の情報産業は成長が見込まれる半面、中核人材であるプログラマーやシステムエンジニアが恒常的に不足していました。そのためこのような措置により、国鉄職員を情報処理技術者へと職能転換させることは、余剰人員の配置に悩む国鉄側と、人手がほしい情報産業界の両者に利をもたらすものでした。
当社が初めて国鉄出向者を受け入れたのは同年12月、総勢20名でした。受け入れ人員は元機関車の運転士や車掌で、受け入れにあたって当社では教育部を新たに立ち上げ、出向者に対して新入社員と同等の教育を施しました。出向者は入社後約3カ月にわたってプログラム言語の基礎知識を学び、その後プログラム開発部に所属して開発業務にあたるようになりました。出向期間は原則として3年間で、期間終了後は国鉄に戻るほか、他社への転職も認められていました。
1987(昭和62)年になると、国鉄は分割・民営化されてJRに名称を変更しました。当社では出向者に対し、出向期間終了後も社に残って活躍してもらうことを期待して、各自の希望を聞く個人面接を年に2、3回ほど実施していました。しかし、出向期間を終えた職員はJR各社に戻るか、JRグループの情報システム会社に転籍するケースが大多数で、当社に残ったのは1994(平成6)年までに受け入れた出向者54名中、わずか1名にとどまりました。
当社によるこのようなソフトウェア開発者の教育支援はほかにも例があり、国鉄出向者の受け入れに先立つ1985(昭和60)年2月には、中国で研修生の教育支援を行った実績もあります。
これは中国政府から日本政府およびJISAを通じて協力要請があったために実施されたもので、当時、情報産業において遅れをとっていた中国を支援する目的がありました。
具体的には、まず当社の社員が北京を訪れ、中国科学技術センターを窓口として現地で面接を行い、北京大学から1名、復旦大学から1名、計2名を受け入れて当社内で1年間にわたり研修を実施しました。
国鉄出向者の受け入れと中国研修生の教育のいずれも、一企業ながら国策の一端を担い、貢献しようという意志のもとに行われた取り組みでした。
*1
社団法人情報サービス産業協会(JISA)
当時の名称。2011(平成23)年より一般社団法人に移行した。ランドコンピュータが1971(昭和46)年に加盟した社団法人ソフトウェア産業振興協会が、1984(昭和59)年に社団法人日本情報センター協会と合併して、社団法人情報サービス産業協会となった。
1986(昭和61)年7月、当社は技術者1名を米国ニュージャージー州のKENTEK(ケンテック)社に派遣しました。同社で行われるレーザープリンターのファームウェア開発に参加するためで、派遣期間は2年4カ月におよびました。その後、別の技術者1名が交代で同じくKENTEK社へ2年間の予定で出向しました。
1989(平成元)年11月になると、ラスベガスで行われたコンピュータ見本市「COMDEX(コムデックス)」視察のために技術者2名が渡米し、その際にKENTEK社を訪問しましたが、これは、新たな商品企画開発のアイディアを求めて行ったものでした。
その後当社では、米国のパッケージソフトを日本でローカライズ後に販売するパッケージビジネスを開始し、その担当部門である「商品企画部」が1992(平成4)年に新設されました。
KENTEK社での執務風景
当社は創立当初より業界団体に所属するなどし、他社と交流し、情報交換を行いながら情報産業の振興に尽力してきました。
1971(昭和46)年7月には、社団法人ソフトウェア産業振興協会(JISA)に加盟していますが、当時の加盟企業はわずか30社でした。
1979(昭和54)年10月になると当社はJISAの理事会社に任命され、さらに1985(昭和60)年4月には、当社の副会長であった水口英明がJISAの副会長に就任しました。
1986(昭和61)年になると、当社は財団法人コンピュータ教育開発センター(CEC)に加盟し、業務委員会、ソフトウェア委員会に登録するとともに、出資理事会社に任命されました。
CECへの加盟により、小中学生向けの教材の標準化参考モデルの試作などに着手することになり、それが1996(平成8)年に全国の学校に配布される教材の開発へとつながっていきました。
一層の成長に向けた体制が整備される中、人事制度の改定や人材教育の拡充が進められました。
それまで未整備だった人事制度は17期(1986/昭和61年7月〜1987/昭和62年6月)より職能資格制度を導入し、等級別の処遇を開始して社員の身分上の格差を是正しました。
また、社員教育においては情報処理技術者資格の取得を奨励し、当社教育部の主催による受験対策講座を開催するようになりました。
社内の研究活動も活発になり、ネットワーク研究会、効率化委員会、教育委員会、資格制度委員会の4つの委員会が設置されました。
ネットワーク委員会は技術の取得と社内パソコン通信の開発、効率化委員会は生産性の向上、教育委員会は新人・中堅社員教育、資格制度委員会は人事考課システムの体系化と考課者の訓練などについて、それぞれ研究活動を行う委員会でした。
このような動きの背景には、コンピュータ関連の産業がいまだ成長途上にあり、技術力を重視しつつも人材育成が後手後手に回ってしまい、体系化された教育が行われていないこと、同時に、社から一人ひとりの社員に対して、技術者としてのキャリアパスが示せていないことへの問題意識がありました。
これは当社に限ったことではなく、ソフトウェア産業やコンピュータメーカー全体に共通する認識でした。このような問題の是正に向けて、当社では社内はもちろん他社とも交流をもち、解決に向けた話し合いや研究を盛んに行っていました。
教育委員会運営内容(1986年)
1986(昭和61)年になると、パッケージソフトを顧客企業の要望に合わせてカスタマイズする業務が金融分野で急増しました。顧客となったのはクレジットカード会社や銀行、証券会社などでした。
これらの仕事はクレジットカードの急拡大や金融分野全体の成長ともあいまって、その後の継続・拡大が見込まれるものでした。また、元請けである富士通から表彰されるなど、業務に対する当社の評価も高まっていきました。
翌1987(昭和62)年になると、クレジットカードシステム分野においてシステムインテグレーションサービス(SI)を行うなど、新たな展開がありました。このようにして創業以来、当社が得意としていた金融システムは、開発以外も含めたシステム関連業務を広くカバーするようになり、顧客も銀行のほかクレジットカード会社や証券会社へと広がっていきました。
1988(昭和63)年、当社はシステムインテグレータ(SI)登録企業となりました。システムインテグレータとは、顧客企業に対してシステムインテグレーション・サービスを行う能力を有した企業のことで、システムインテグレーション・サービスは、情報システムの企画・構築から運用までを包括的に提供することを指します。
システムインテグレータの登録・認定制度は1988(昭和63)年、通商産業省(現・経済産業省)の管轄により設けられ、当社はその第1回目の認定企業となりましたが、この認定制度が発足した背景には、情報産業で先行する米国に倣い、日本でも企業の規模や資本力以外の評価基準を設けて、中小規模であっても技術力や開発力のあるソフトハウスを、国家として支援・育成していこうという目的があったとされています。
認可には「登録」と「認定」の2つのステップがあり、認定を受けるには元請け会社を介したいわゆる下請け業務でなく、顧客との直接取引による実績があることが必須条件とされました。そのため独立系ソフトハウスの場合、SIとして登録はしても、認定まで受けられる企業は決して多くありませんでした。そのような中にあって、当社は1989(平成元)年3月に「金融、流通、教育」の各分野でシステムインテグレーション・サービスを行える企業として認定を受けることができました。
SI認定は有効期間が2年に限定されているため、一度認可を受けた後も、維持・継続するためには再申請を行わなくてはなりません。半面、認定が継続されればその企業の信頼性を示す有効な指標となり、自社の競争力の向上に大いに役立ちます。
当社では、SI認定の再申請の準備およびSI認定企業である強みを営業活動で活かすために、1989(平成元)年7月にSI推進室を設置しました。
SI認定を受けたことからもわかるように、創業当初は行っていなかった保守・運用も、この頃には手がけるようになっていました。
システムインテグレータ認定
1989(平成元)年頃になると、社員教育の体制が充実をみるようになりました。
技術教育については従来より情報処理技術者資格の取得を奨励し、当社教育部の主催による受験対策講座のほか、通信講座が実施されていましたが、さらなる取得率の向上を意図して給与制度を改定し、1990(平成2)年1月分の給与から資格手当を支給するようになりました。なお、この改定にともない、合格祝一時金は廃止されました。
また、中堅社員と管理職社員を対象としたリーダーシップ教育や、専門技術教育を制度化し、実施するようになりました。
中堅社員や管理者に対してはそれぞれ合宿研修を行い、講師を招いた社内セミナーでは、リーダーの心得やプレゼンテーション技法をテーマにした内容など、実践的な教育が行われました。
1990(平成2)年12月、東京青山会館において「R&Dコンベンション」が開催されました。これはあらかじめ社員から募集した論文の中から優れたものを選出し、発表と表彰を行うものです。同年が初の開催で、当日は200名を超える社員が参加しました。
開催にあたっては実行委員会を組織し、応募のあった22編の論文の中から、優秀論文4編と入選論文3編が選出されました。
翌1991(平成3)年2月には関西支店で「大阪R&Dコンベンション」が行われ、東京からの発表者も交えた約80名の社員が参加しました。
同年12月には東京で2回目となるR&Dコンベンションが開催されました。この年は当社の創業20周年にあたることから、記念イベントのひとつとして行われ、社員約140名が参加しました。
同年からは論文を「技術部門」「事務部門」「自由部門」「新人部門」の4部門に分けて募集し、当日は優秀作4編が発表されました。
R&Dコンベンションは社員教育の一環として、技術研究に対する意欲を支援するものであると同時に、社員が急増し、社の規模が拡大していく中で、社員が一同に集まるよい機会でもありました。
R&Dコンベンション(東京青山会館にて)
R&Dコンベンション(大阪支店にて)
1990(平成2)年度は、年間売上高が前年比24.9パーセント増にあたる45.6億円に達し、翌年度までに売上高50億円、利益3億円、社員数500人の達成を目標とする第2次3カ年計画の実現が現実味を帯びてきました。
この頃の顧客は、富士通とそのグループ会社を筆頭に、金融系システム、鉄道、流通小売の大手企業などが名を連ね、直接取引が増加するとともに、新規顧客も順調に獲得して、取引件数も増加の一途をたどっていました。
また鉄道会社からはシステムの調査分析を受注し、当社初となる大規模なシステムコンサルテーション業務を完遂しました。
当社の創業初期にあたる1970年代は、コンピュータといえば大型の汎用機を指す場合が多かったのですが、1980年代になるとコンピュータが小型化し、低価格のデスクトップ型パソコンが発売されるようになりました。
1982(昭和57)年に登場したNECの「PC-98」シリーズや、翌1983(昭和58)年発表の統一規格「MSX」搭載パソコンの発売によって、コンピュータ関連市場は急速に拡大しました。
当社が企画開発を行い、1983(昭和58)年に完成した学習用ソフト「まんてんくん」と、1986(昭和61)年に発売した、日本の地理をゲーム感覚で学べるソフト「日本縦断」はその流れをとらえたものです。
これらの販売期間は決して長くはありませんでしたが、当社がコンシューマー製品の企画開発に本格的に参入し、成功を収めた事例として、社の歴史に鮮やかな足跡を残すことになりました。
今ではパッケージ開発販売といえば、売り上げが不安定で黒字化するのが難しく、また発売と同時に陳腐化や他社との競争が始まるなど厳しさのあるビジネスですが、一度商品が完成すれば、その後販売を継続するうえでの製造コストはわずかな金額に抑えることができるのはかわりありません。
一方、個々の顧客の要望に合わせてサービスを提供するシステムインテグレーションは、優れた技術や顧客の業務への深い理解なくしては成り立たず、長い経験と研究を要しますが、安定した収益が見込める事業です。
確実性が低くても当たれば大きな利益を生むパッケージ開発販売と、相応の開発要員と時間をつぎ込んで安定した利益を上げるシステムインテグレーション。当社におけるこの2つのバランスは時代によって異なりますが、それは市場の動向が反映された結果といえるでしょう。
当社が創業した1971(昭和46)年以降の20年間は、ソフトウェア開発という産業にとって、発展著しい高度成長の時代でした。しかし1990年代に差し掛かり、バブル経済の崩壊という出来事がそこに水を差します。突然の、そして長期にわたる国内経済の停滞により、産業界は経営の抜本的な見直しを余儀なくされました。当社も例外ではなく、苦境を脱するために、営業分野の拡大と迅速に動ける組織構成への転換によって体制を立て直し、再び成長を目指すようになります。
1990年代に入ってまもなく、実体をともなわない地価や株価の高騰に支えられたバブル景気が終焉を迎えました。
1990(平成2)年に政府や日本銀行による金融引き締め策が実施された結果、1991(平成3)年には目にみえて景気が後退し、当社の主要な顧客である銀行や証券会社が大きな痛手を受けました。
このバブル崩壊の波は業種を問わず急速に拡大し、多くの企業は支出を抑えるために情報化への投資も抑制・凍結を決定しました。その結果、過去に景気の大きな影響を受けていなかった情報産業もまた、業界はじまって以来の深刻な不況に陥ることになりました。
当社には世間の景況感よりやや遅れる形で景気後退の影響が直撃し、バブル崩壊後となる第22期(1991/平成3年7月〜1992/平成4年6月)決算における当社の売上高は、前年比85.2%にあたる38億8000万円、税引前利益は2100万円となり、大幅な減収減益となりました。創業以来増収を続けてきた当社にとって、初めての減収であり、この期より3年間にわたって減収が続くこととなりました。
当社は1986(昭和61)年7月から2回にわたる3カ年計画を実施して社を拡大してきましたが、このような深刻な景気低迷により、規模の拡大を目指す経営を転換し、生き残りをかけた経営へと舵を切ることになりました。
本社&3ラボ&関西支店
(1991年当時)
バブル崩壊からまもなく、営業力の向上を意図して1991(平成3)年7月に新設したのが商品企画室でした。これは米国で売れているパッケージソフトのライセンスを取得して日本語版を開発し、国内販売を行う部署です。
米国では1988年の段階でシステム導入の6割がパッケージを利用する状況であり、日本においても早晩パッケージの活用が進むとの経営判断がありました。そのため当社ではパッケージ販売への取り組みを開始したのです。
具体的には1989(平成元)年、技術企画部にCAI開発室を設立したことが発端となりました。ここではCAI開発と、自社パッケージの検討が進められていましたが、検討内容がまとまらず、自社製品の完成にはたどり着けませんでした。その後、技術部内で「CAI開発グループ」と「プロダクツ企画グループ」に分かれ、「プロダクツ企画グループ」が商品企画室の前身となりました。
発足のきっかけとなったのは、過去に当社の技術者2名が米国
KENTEK社に出向していたこと、および米国で行われるコンピュータ見本市「COMDEX」を視察していたことでした(詳細は第2章を参照)。
KENTEK社への出向は技術の習得を目的としたものでしたが、最初に出向した技術者が米国のソフトウェア産業に興味をもち、独立系ソフト会社やソフトウェア流通会社とチャネルを築いていたことが、商品を発掘し、ライセンス取得の交渉を行う際に役立ちました。
当社が海外パッケージのライセンス販売を手がけるのはこれが初めてでしたが、米国では中小規模の会社がパソコン用のソフトウェアを制作・販売しており、その中に成功事例も多数みられることが、このビジネスに踏み切る後押しをしました。
商品企画室の発足によって、当社はデータ圧縮ソフトの「Super Stor Pro」(米国アドストア社製)と、CRT画像焼き付き防止ソフトの「マチネー映画館」(米国アクセスソフテック社製)のライセンスを取得してローカライズを行い、1993(平成5)年に一般消費者に向けて発売しました。
「Super Stor Pro」はハードディスクなどのデータ容量を約2倍に拡張するためのソフトウェアで、当時、100〜200MB程度であったパソコンのメモリーを有効に使えるようにしたものです。まずマイクロソフトDOS/V版を発売し、その後パソコンで圧倒的なシェアを占めていたNEC「PC-9800シリーズ」の対応版も発売しました。「マチネー映画館」は、CRTなどのディスプレーに同じ画像が長時間表示されて画面に焼き付くのを防ぐため、ディスプレーに動画を表示するソフトウェアです。
これらはいずれも業界紙で紹介され、一般への販売のほか、OEM提供も行われました。
組織図(1991年)
米国「COMDEX」
営業力強化のために、商品企画室とともに新たに設置したのが、SI営業部でした。これはユーザーニーズを発掘し、ハードウェアとソフトウェアをセットにして販売する提案型のビジネスを担当する部署です。
背景となったのは、コンピュータの小型化の進行でした。当社は創業時から大型コンピュータのシステム開発を中心として、業務を拡大する一方で、「まんてんくん」や「日本縦断」などのパソコン用・家庭向けのパッケージソフトの開発を行った経験がありますが、この頃、将来的にオフィス向け・家庭向け双方の需要の急増が見込めるパソコンに関連するビジネスに着目し、バブル崩壊によって低下した収益力を回復するために、その開拓を急いでいました。
そこで、1992(平成4)年度の重点課題のひとつとして、ダウンサイジング案件の受注拡大を挙げ、その開拓をSI事業部に託したのです。
SI営業部の初期の仕事としては、企業や学校へのLANの敷設を含むシステム導入や、業務システムのコンサルティングのほか、流通小売店向けの電子手帳による伝票発行システムの構築、航空機チケットの発券システムの提供などが挙げられます。
パソコンが今ほど普及しておらず、人々のパソコンへの理解度や使用経験がまちまちな中で、このように電子手帳を端末としたシステム提案を行ったり、当社では前例のなかったチケット発券システムを提案して採用に至るなど、新機軸の事業も積極的に展開されました。
国内経済の低迷を受けた厳しい経営環境の中で、当社は第22期(1991/平成3年7月〜1992/平成4年6月)から第24期(1993/平成5年7月〜1994/平成6年6月)まで、3期連続で減収を経験することになりました。第22、23期は減収減益でしたが、経費削減を徹底したことで、24期に関しては減収ながらも増益となり、それがV字回復への足がかりとなりました。
このような状況のもと、当社では新たな営業推進体制として「ソフトウェア開発」「パッケージ商品の企画販売」「SIサービスの提供」を事業の三本柱と定めました。
ソフトウェア開発においては、得意分野である金融業からの受注促進と安定顧客の拡充に注力した結果、受注金額も徐々にもち直し、「金融に強い」という当社への評価を改めて実感することになりました。
また、パッケージ商品の企画販売については、商品企画室を中心に展開し、データ圧縮ソフトの「Super Stor Pro」が、一般販売とOEM提供を合わせ、初年度で計1万4800本の出荷となりました。
一方、システムインテグレーション・サービスを担うSI営業部は初年度の売上高が約8300万円となり、翌年度に続く受注も獲得して、その後の拡大を予想させる形となりました。
経費圧縮による、不況下でも収益が上がりやすい組織への組み替えと、営業努力によって、第25期(1994/平成6年7月〜1995/平成7年6月)の当社決算は、3期続いた減収に歯止めがかかり、売上高28億8000万円、税引前利益1850万円となって、ようやく増収増益に転じました。
金融分野の大型プロジェクトの収入がこの時期に回収され、また官公庁との取引が拡大したほか、学校関係の取引が増加してパソコンを中心とするハードウェアの売り上げが増加したことなどが、収益を押し上げた要因でした。
しかしながら、バブル崩壊前の売上高および利益には追いついていないこと、また1995(平成7)年1月に発生した阪神・淡路大震災により国内経済が打撃を受けたことから、楽観論はなりをひそめ、一層の営業努力と生産性の向上が試みられました。
第26期(1995/平成7年7月〜1996/平成8年6月)になると、当社決算は売上高33億5000万円、税引前利益2160万円となり、第25期より2期連続で増収増益となりました。
当時、産業界全体の景気は依然厳しい状況にあったものの、それまで情報化投資が抑えられていたことへの反動による好転の兆しがみえたことから、当社では後述するように他社への出資や子会社の再構築を進め、新たな事業の開拓に向けた布石を打つようになりました。
このような業績の回復を受けて、1993(平成5)、1994(平成6)年と2年連続で取りやめていた新卒者の人材採用も再開し、1995(平成7)年4月には、5名の新卒者が入社しました。
1996(平成8)年には創立25周年を迎え、5年後となる2001(平成13)年の創立30周年に「年間売上高50億円・経常利益3億円」を目標とする中期経営計画が立案されました。
創立30周年記念で挨拶をする田村社長
創立30周年記念の懇親会の様子
1993(平成5)年より始まった海外パッケージソフトのライセンス販売では、前述した「Super Stor Pro」、「マチネー映画館」ほかのパッケージ製品を発売し、取扱製品を徐々に増やしていきました。
1995(平成7)年10月にはマルチメディア映像・音声再生ソフト「SoftPEG Player(ソフトペグプレイヤー)」を発売しましたが、この製品についてはソフトバンク株式会社より販売協力を得ることができ、発売と同時に1万本が出荷されました。
当時、パソコンで動画を再生しようとすると、スペック不足によって再生に支障を来すことが少なくありませんでしたが、「SoftPEG Player」では画像を圧縮して再生するため、専用のプレイヤーを用いなくてもパソコン上でストレスなく再生が行えることから好評を博しました。
また当時は、ウィンドウズ95の搭載により操作性が格段に向上したパソコンが発売され、オフィスはもちろん家庭にも、パソコンが急速に浸透していた頃でした。その空前のパソコンブームの中で、「SoftPEG Player」は富士通社製のパソコンに標準搭載されるなどして、大いに出荷数を伸ばしました。
MPEGプレーヤーソフト「Soft PEG 96」
1996(平成8)年頃になると、当社ではシステムインテグレーション・サービスとして、既存のビジネスソフトを顧客の要望に合わせてカスタマイズする、パッケージ導入ビジネスを展開するようになりました。
代表的な仕事としては、D&Pテクノロジーアジア社の会計等基幹業務系パッケージ「Super Stream(スーパーストリーム)」のカスタマイズを、コンサルタント会社との共同事業として展開しました。最初の導入先はベビー用品メーカーで、1997(平成9)年の納品となりました。
また、富士通社製の販売管理システム「FM MAX」も取り扱うようになり、同様にパッケージ導入時のカスタマイズを受注するようになりました。
このようなパッケージ導入ビジネスは、当初、SI営業部が担当していましたが、1999(平成11)年からは、新設されたソリューション事業部が担当するようになりました。
1990年代後半から2000年代にかけて基幹業務システムを導入する会社が相次ぎ、需要は増える一方でしたが、会計・財務分野に関しては、競合する製品やソフトハウスも多く、利益の上がりにくい一面がありました。
しかし、このようなパッケージ導入ビジネスは大きく成長した結果、現在の当社において主力事業のひとつとなり、導入時のカスタマイズや導入後の保守運用も含めて提供を行っています。そうしたビジネスの萌芽が、この頃であったといえるでしょう。
Super Streamロゴ
Super Stream-NX イメージ図
Super Stream-NX 機能全体図
創業時の社名が「日本コンピュータ学院研究所」であることからもわかるように、当社の起源はコンピュータ教育事業を展開していた学校にあります。
創業後に学校事業は縮小され、当社が教育と直接関わる機会は徐々に減っていきましたが、創業25年目を迎えた1996(平成8)年に、当社と教育との関連を改めて思い出させたのが、同年に完成した小中学生向けのCD-R教材「わたしたちのエネルギーと環境」でした。
当社は1986(昭和61)年に財団法人コンピュータ教育開発センター(CEC)に加盟し、そこで小中学生向けの教材の標準化参考モデルの試作などに着手することになりました。
内容はCAI(コンピュータ支援教育)システムの開発や、評価など多岐にわたり、大学の研究室と共同でシステム開発を行ったこともありました。
1993(平成5)年になると、当社はCECによる「環境とエネルギー」をテーマとした公募に参加し、応募企業25社の中から選ばれてシステム開発にあたることになりました。期間は1994(平成6)年度から1996(平成8)年度までの3年間で、その間の予算として計1億2000万円が支給されました。
その成果が、CD-R教材「わたしたちのエネルギーと環境」です。内容はエネルギーの成り立ちを動物キャラクターなどによってわかりやすく説明するもので、完成後は全国の小中学校に約5万5000万枚が配布され、教育の場で活用されました。
パソコンがオフィスや家庭の必需品となり、インターネットのない日常が考えられない時代がやってきました。それにともない、情報セキュリティ対策などの新たな課題が出現し、当社のビジネスは新時代に即したものへと塗り替わります。インフラサービスや医療システムなどの新領域に進出する一方で、競争力向上を目的とした組織体制の整備に着手しました。長期不況のまっただ中にあって、継続的な改革と挑戦が活路を切り拓き、現在の当社の柱をなす主力事業がこの時代に誕生します。
1997(平成9)年に事業部制を敷いて以来、継続的に部門の再編を進めていく中で、当社は1999(平成11)年にパッケージ導入ビジネスを行う部門として「ソリューション事業部」を新設しました。
主な取扱製品は会計等基幹業務系パッケージ「スーパーストリーム」や販売管理システム「FM MAX」で、これらのパッケージを顧客企業の要望に合わせてカスタマイズし、販売する事業を担う部署です。第3章で述べたように、1996(平成8)年頃からSI営業部で担当していた業務を引き継ぐ形で設置されました。
当時はオフィスのIT化に拍車がかかった頃で、業務の合理化を進めたい企業各社が、自社に適したシステムソリューションの検討を盛んに進めており、その需要に合致することから専門部署の設置に踏み切ったものです。
当社においては増収に転じたとはいえ、いまだバブル崩壊の痛手から抜けきれておらず、新規顧客の開拓による受注の拡大に結び付きやすいソリューションサービスは、期待のかかる新事業でした。
組織図(1999年)
FM MAXメニュー画面
2000(平成12)年、日本初のネットバンクである「ジャパンネット銀行」が開業しました。ネットバンクとは、店舗に出向かなくてもWebを介して口座を開設し、取引が行える銀行のことで、社会のIT化と銀行業への参入規制の緩和によって生まれた業態ですが、当社もそのシステム開発に関わっています。
ジャパンネット銀行の開発案件は富士通が受注し、同社を通じて当社も参画したうえで、1998(平成10)年より開発が始まりました。当時の当社はWebの開発経験に乏しかったため、技術を習得しながらの開発でしたが、Webの開発経験よりもむしろ勘定・業務システムの知識が求められる内容であったため、大きな混乱もなく、順調に業務を遂行することができました。
ジャパンネット銀行の開業前後は金融業界の再編が進み、店舗を構える従来型のスタイルの銀行は合併によってその数が大幅に減りましたが、半面、ネットバンクの新規開業や、既存銀行のネットバンキング参入が相次ぎました。
当社ではジャパンネット銀行での開発経験をもとに、他のネットバンクのシステム開発にも参画し、「金融システムに強いランドコンピュータ」という評価は、Web時代になっても引き継がれることとなりました。
当社が創業まもない頃から富士通を通じて東京銀行(現・三菱UFJ銀行)のシステム開発に関わっていたのは第1章で述べた通りですが、そのような歴史と銀行業務に対する理解の深さ、そしてシステムの上流工程を担うに足りる技術力の高さが当社の評価を高め、現在も盛んに行われている銀行システムの開発・保守業務の継続という結果を生んだといえるでしょう。
大橋東急ビル(池尻大橋)
創立30周年記念で行われた論文発表会での表彰風景
創立30周年記念で行われた論文発表風景
この頃、国内経済はいまだ不況の中にあり、デフレの続く不透明な状況にありました。それを反映してか、顧客となる企業は従来のような「効率化・合理化・インフラ整備」という要望にとどまらず、「経営戦略の実現」という明確な目的を掲げて情報化を進めるケースが増加し、高度な要求を満たす提案が求められるようになりました。
そのような中で、当社が1999(平成11)年より本格的に参入した提案型ソリューション事業は売り上げを伸ばし、高収益事業として定着しました。
人事面では、新卒者採用を再開したことから社員数が再び増加しはじめ、1999(平成11)年に本社190名、関西支店51名、計241名となりました(7月1日時点)。そのため、より広い社屋を求めて、2000(平成12)年5月に本社は出光池尻ビル(目黒区東山・225坪)を離れ、大橋東急ビル(目黒区大橋1‒5‒3・330坪)へと移転しました。
移転の翌年、21世紀の幕開けとなる2001(平成13)年1月に、当社は創立30周年を迎えました。それに際して、3カ条からなる経営理念を決定し、次代に向けた経営の指針を明確に定めました。
また、30周年を記念した式典を開催し、社員で結成された「明日のランドを創る会」の成果発表や、社員による論文発表などが行われました。
「明日のランドを創る会」は、一般に企業の寿命が30年といわれることから、30周年を迎えた当社において、過去の成功体験に頼らず、時代の要望と顧客の志向に応えられる企業であり続けるための仕組みづくりを考える会です。経営陣も含めた社員20名以上で構成され、「ビジネス構造改革分科会」「人材育成分科会」「品質・生産性分科会」「インフラ整備分科会」に分かれて議論を重ねるほか、30周年を目前にした2000(平成12)年11月にはメンバー全員が一同に集まり、合宿形式での話し合いも行いました。
1990年代後半より、当社では「品質保証体制の整備」を大きな課題としてとらえていました。金融機関などの正確性・確実性を重んじる顧客が多い中、品質マネジメントを徹底して仕損じプロジェクトをなくすことが、顧客の信頼に応えるサービスを提供し、当社の競争力を高めるうえで不可欠と判断したためです。
そこで1999(平成11)年に「ISO認証準備室」を設置し、品質マネジメントの国際規格であるISO9001認証の取得に向けた調査と準備を進めました。
その結果、2002(平成14)年1月には金融ソリューション事業部とカードソリューション事業部が認証を取得し、さらに2003(平成15)年2月には、全社を対象としてISO9001:2000の認証を取得しました。
ISO9001の登録書
(金融/カード部門)
ISO9001の登録証(全社)
2000年代初頭の情報サービス産業は、一定の需要が見込まれる半面、価格競争と顧客企業による事業者の選別が進み、事業者側にいっそうの技術力や提案力が求められるようになりました。また、主に新興企業を担い手とするITバブルとその崩壊が短期間のうちに起こり、成長分野とされるIT産業に緊張感をもたらすこととなりました。
ITバブルの崩壊は2000(平成12)年4月以降に株価暴落という形で現れ、当社においても同年6月期に売り上げの落ち込みが見られました。こうした変化を踏まえ、当社はそれまでの事業形態の延長では成長が望めないと判断し、「派遣型・作業請負型」から「上流一括受託型」の取引形態へのビジネスモデルの転換を決断しました。
2004(平成16)年には中長期計画も策定し、2008(平成20)年度の目標として売上高78億円、経常利益6億5000万円という数値を掲げました。2003(平成15)年度の実績は売上高38億4900万円、経常利益1億1000万円であり、5年計画とはいえ、非常に高く設定された目標値でした。
同時に、対象顧客の重点業種として「金融、クレジットカード、生損保、医療、流通、中央官庁」を掲げました。医療システム関連事業は当時参入したばかりでしたが、医療福祉分野の充実が国の重点施策として掲げられたことから、将来的な成長が見込めることを想定し、重点業種として明示しました。
また、社の構造改革の一環として改革委員会を結成し、「プロジェクトマネジメント標準」「開発標準」「見積り標準」「ビジネスプロセスフロー」などの社内標準を定め、各ビジネスプロセスにおける行動基準としました。
当社の社内情報の電子化・共有化は2002(平成14)年から本格化しました。社内システムを導入して、まず勤怠管理や経費の申請、案件別稼働時間の管理を電子化しました。さらに2005(平成17)年4月にシステムを変更し、稟議書やプロジェクト原価管理、商談管理などにも利用できるようにしました。
この新システムによって利便性と精度が増し、共有された各種のデータの整合性が向上したことから、社の経営分析やプロジェクト評価がしやすくなり、戦略的な経営を行う基盤が形成されました。
KIZUKIシステムの勤怠入力画面
KIZUKIシステムのPortal画面
2006(平成18)年、当社は成長分野の見極めと新規事業へのチャレンジを目的として、複数の事業部を新設しました。そのひとつがビジネスシステム事業本部内に設置した「インフラソリューション事業部」です。
当社は1990(平成2)年頃からインフラ分野に進出していましたが、社内に専門の部署を設置したのはこれが初めてでした。それまで関西支店を中心にサーバやネットワークの設計・構築作業の受注があり、各事業部で対応していましたが、収益性がよく発展も見込めることから事業部に昇格させたものです。
事業部化にあたっては、将来的にインフラ構築から受託開発までを一貫して顧客に提供できるワンストップサービスを行うことを目標としました。
事業部化してしばらくの間は仕事の繁閑の差が大きく要員の配置に苦慮したり、リーマン・ショックの影響により、業績が不安定でしたが、2010(平成22)年なかばからはインフラ需要の高まりや当社の認知度の向上などが奏功して業務量が安定し、収益性が向上しました。
当初の目標とした「インフラ構築を含むワンストップサービスの提供」も実現し、現在では当社の事業の三本柱のひとつとなりました。この事業は直接取引の顧客が多いのも特徴で、取引実績のある顧客に新規事業を提案して受注を獲得することも多く、当社のビジネスの拡大に貢献しています。
2006(平成18)年4月、インフラソリューション事業部と並んで新設されたのが、「医療事業部」と、後述するエンベデッド事業推進室です。
当社では1998(平成10)年頃から「医療グループ」を立ち上げて、当社社員が病院に常駐して医事会計システムの導入と保守を担当する事業を展開していました。
医療分野への進出は、医療システムの実績がある他社の社員数名が当社に移籍したのがきっかけでした。医療システムが成長分野であったことから、当社はその後も医療専門学校の卒業者を採用するなどして新入社員を5、6名、数年にわたり投入し、院内システムエンジニアとして客先の病院に配置して、体制の拡大に努めました。
その医療グループを2006(平成18)年に事業部に昇格させたのは、医療のシステム化のさらなる成長を見込んで、拡大のスピードを上げるためでした。
とくに、当時は全国の病院でカルテを電子化する準備が進められていたため、その動きに応じて組織体制を整えたことで、電子カルテ分野への進出も果たしました。
近年では富士通のグループ企業と人事交流を行って医療システムのノウハウをもつ人材を受け入れるなどし、医事会計システムや電子カルテに限定せず、医療システム全般のシステムインテグレーション・サービスを提供できることをアピールするまでに成長しました。
病院情報システム
2006(平成18)年4月、インフラソリューション事業部や医療事業部とともに新設した部署が、「エンベデッド事業推進室」です。
エンベデッド(組み込み)は、それまで当社で経験のなかった分野ですが、成長分野であったことから、経験者を中途採用すると同時にワーキンググループを結成して検討を重ね、今後の拡大が見込めると判断して、事業推進室の設置を決定しました。
エンベデッド分野は携帯電話への活用によって拡大していたため、需要や技術者が携帯電話メーカーの多い関西地区に集中する傾向がありました。当社のエンベデッド事業推進室も当初は関西支店内に設置され、携帯電話のシステム開発のほか、高速道路のETC(料金自動収受機)の通信システムのカスタマイズや、半導体製造の露光システムなどを受注しました。
こうした事業を担当する部署は事業の拡大にともない本社にも設置され、関西支店の設置部門が「エンベデッド事業部」、本社の設置部門が「組込・制御システム事業部」の名称となりました。
しかし、その後スマートフォンの普及にともなう海外メーカーの進出によって、国内メーカーによる携帯電話市場が急速に縮小し、当社への受注も減少して、2010年代のなかばにはエンベデッド事業部、組込・制御システム事業部とも廃止することになりました。
2005(平成17)年度、当社において大型のトラブルプロジェクトが複数発生し、収益の悪化を招くという出来事がありました。
それを重く受け止め、プロジェクトの品質管理の徹底およびトラブルプロジェクトの予防と収れんを目的として、2006(平成18)年に新設したのが「PMO推進室」です。
それまで当社ではプロジェクトの管理や評価を部門ごとに行っており、全社を横断的に監視する部署がなかったため、問題が発生したプロジェクトの対応が後手に回る状況でした。
そのような事態を回避するために、プロジェクトの見積、進捗、品質、採算、勤怠(稼働率)を第三者的な立場から監視して、リスクチェックを行う部署が必要であると判断し、PMO推進室を設置したのです。
PMO推進室は、各部門の週報の精査や商談内容の確認、顧客に提出する見積りの事前審査などを通してリスクを早期に発見し、関係者と連携をとって正常化を促す役目を担っています。
監視の対象としたのは3000万円以上の大型プロジェクトですが、2009(平成21)年より「受注金額3000万円以上の作成請負契約で期間が3カ月以上」という明確な基準を設け、受注金額についてはその後「1000万円以上」に変更しました。
また、プロジェクトの採算性が悪化する原因が、見積り時の条件設定にあったケースが散見されたことから、その是正のために、当社標準の見積書のひな形を作成して関連部門に配布し、受発注者の条件合意を支援するなど、予防効果の高い取り組みもPMO推進室の発足時より行っています。
現在では強化を図るために組織を改定し、プロジェクト支援統括部の中で本部ごとにPMO担当を配置する形をとっています。
トラブルプロジェクトは収益の低下を招くだけでなく、不適切な稼働によりプロジェクトメンバーが疲弊したり、追加要員の投入や要員の長期にわたる拘束によって他の新規プロジェクトを立ち上げる機会を逃すといった問題もはらんでおり、さらなる防止と発生時の早期の対処が進められています。
2000年代なかばの当社では、金融、クレジットカード、医療などの分野を中心に、技術者不足が目立つようになりました。それを人材採用によって補うために、2005(平成17)年秋に新卒者の採用を目的とした地方セミナーを札幌、仙台、名古屋、京都、大阪、岡山、福岡の7都市で開催しました。それにより25名の新卒社員を確保できたことから、翌年も地方セミナーを開催し、人材の確保に努めました。
また、中途採用者についても、人材紹介会社を活用したり、社員紹介による採用などを強化して、2005(平成17)年度においては41名を採用しました。
採用とともに教育にも注力し、技術者の育成を目的として、2006(平成18)年度よりITSS(ITスキルスタンダード)診断を導入しました。診断結果をもとに弱みを克服する研修を重点的に実施して、教育効果を上げるためです。
また、トラブルプロジェクトの発生を防止するためのPM(プロジェクトマネジメント)力の向上が数年来の課題となっており、前述のようにPMO推進室を設置したほか、プロジェクトマネジメント実務を意識した「提案・見積作成」や「プロジェクトの品質管理」など、社の収益性に直結する研修も実施しました。
一般社会の情報セキュリティへの意識は2000(平成12)年頃から徐々に高まりをみせており、それに応じる形で企業各社は対策を講じるようになりました。そのひとつが、個人情報を適切に取り扱っていることを示す「プライバシーマーク(Pマーク)」の取得です。
当社でも取引先からPマーク取得の有無について問い合わせを受けたり、公共事業の入札でPマーク取得が入札資格に挙げられることが増えてきたため、検討を重ねたうえで、2002(平成14)年2月にPマーク取得に向けて調査と準備を進めることが決定しました。
翌2003(平成15)年6月には取得を支援するコンサルタント会社と契約して準備を本格化し、2004(平成16)年3月にPマークの認証取得を実現しました。
とくに金融分野ではシステム開発を通じて個人情報を扱う場面が生じるため、当社がPマークを取得したことは顧客の信頼を得るためにも有効に働きました。
Pマークの取得をきっかけとして、当社ではセキュリティ分野の資格取得のコンサルティングビジネスの可能性に着目し、その実現性を検討するために、各部署からメンバーを招集したワーキンググループを2005(平成17)年に結成しました。
そこで出た結論は、セキュリティのコンサルティングを事業化するにはPマーク資格だけでは成り立たないため、まずは情報セキュリティマネジメントシステムの国際基準であるISO27001を取得していることが望ましいというものでした。それを受けて当社では、ISO27001認証取得に向けて準備を開始しました。
周到な準備を経て2007(平成19)年6月に、当社は全社においてISO27001認証を取得しました。当時はこの認証を取得している企業が少なく、当社が認証を取得したことは、セキュリティ意識の高さを外部にアピールする指標として有効に機能することになりました。
ISO27001認定
2006(平成18)年度に年間売上高が52億円に達し、念願の売上高60億円台への見通しがついたことで、2007(平成19)年10月1日、当社は経営陣の大幅な入れ替えを行い、経営体制を刷新しました。
田村哲夫が会長を退任してファウンダーに就任し、田村秀雄が代表取締役社長を退任して代表取締役会長に就任しました。代表取締役社長には、2006(平成18)年より取締役執行役員であった筬島庶年が就任しました。
同年にはもうひとつ、経営上の大きな動きがありました。数年前から検討が重ねられていた株式公開の実現に向け、監査法人とアドバイザリー契約を締結したのです。株式公開に向けて具体的な取り組みを行ったのはこれが初めてでした。
一般に株式公開の目的には「資金調達」を第一に挙げる企業が多いのですが、当社の場合は株式公開によって、社がステークホルダーである社員、株主、顧客とともに、社会に利益をもたらす「社会の公器」として持続的発展を遂げることを何より重視しました。これを追求した結果として、継続的に利益を上げ、社会貢献を行って、永続的に企業価値を高めていくことを、株式公開の目的としました。
田村哲夫ファウンダー、田村秀雄会長、筬島社長
2008(平成20)年度の当社決算においては、売上高が前年比112%にあたる60億4798万5000円となり、過去最高の売上高を達成しました。
売上高の構成比はシステムインテグレーション事業が全体の86.1%、組込・制御システム事業が9.6%、インフラソリューション事業が4.0%であり、増収の要因は、金融・クレジットカード分野を中心に、当社の事業の中核であるシステムインテグレーション事業が好調であったこと、また医療事業が堅調に推移してそれを下支えしたことなどが挙げられます。
しかしながら、2008(平成20)年9月に米国サブプライム住宅ローンの不良債権化に端を発する世界同時不況、いわゆるリーマン・ショックに見舞われたことから、国内経済は急速に冷え込み、株式公開に向けてみずほ証券とともに準備を進めていた当社も、それを中断せざるを得ない状況になりました。
セグメント別売上構成
当社が初めて株式公開を行ったのは2015(平成27)年、東証二部においてであり、その後2018(平成30)年に東証一部への上場を果たしました。
現在は中小規模でも成長性のある企業であれば上場が認められるマザーズやジャスダックなどの株式市場がありますが、2000年にナスダック・ジャパン(現・ジャスダック)が開設される前は、新興企業向けの株式市場が存在しなかったため、当社では1989(平成元)年に策定された第2次3カ年計画の「売上高50億円、社員500名」という数値目標に表されるように、規模の拡大を目指す経営を行っていました。
しかしその直後に起こったバブル経済の崩壊によって業績が悪化し、規模の拡大を至上とする経営計画は見直しを迫られることとなりました。
当社が経営上の「選択と集中」を推進し、V字回復を遂げて、社として株式公開を目指すようになったのは2007(平成19)年ですが、翌2008(平成20)年にはリーマン・ショックによって、国内の株価も低迷してしまいます。さらに3年後の東日本大震災の発生は、株式市場の混乱を長期化させただけでなく、これからの企業はどうあるべきかという重い問いを投げかけることになりました。
「ランドコンピュータはどうあるべきか」という経営理念は、創業30周年にあたる2001(平成13)年に改めて定義されていますが、創業44年目にして果たされた当社の株式公開は、このような経営理念を基盤とし、リーマン・ショックなどの危機と困難を乗り越えて実現したものでした。
クラウドコンピューティングをはじめとする新技術の進展により、情報産業の成長分野と収益構造は大きく変化していきます。さらに人口減少が加速する「縮小する社会」となった国内市場において、それに適したビジネスモデルを構築し、また社のビジネスを創造する人材を確保していくことが大きな課題となりました。それらに向き合いつつ当社は成長を続け、過去に展望を描きながらも1度中断した株式公開の準備を進め、ついに東証への上場を実現します。
2009(平成21)年度は前年に勃発したリーマン・ショックによる世界同時不況により、赤字決算を余儀なくされた企業が少なくありませんでした。しかし、当社においては減収減益となったものの、バブル崩壊後の構造改革によって不況に強い強靱な経営基盤をつくり上げていたことが功を奏し、例年に近い水準で利益を確保することができました。
その一方で、情報産業界全体は大きな転換期を迎えていました。企業や消費者がシステムの「所有」にこだわらず、クラウドなどで利用するようになり、既存のビジネスモデルが通用しないケースが増えてきたのです。
さらに企業においては、自社専用のシステムを構築するケースが減り、既存のアプリケーションを導入するケースが目立つようになりました。
このような変化に直面し、当社はソフトウェアの受託開発を中心とした「つくる」ビジネスモデルへの依存度を下げ、顧客の情報化を総合的に支援するパートナーとしての役割を担う「サービス提供型」のビジネスモデルに移行する必要性を痛感するようになりました。
そこで今後どのような事業を展開すべきかを検討するため、各事業部からメンバーを招集し、ワーキンググループを結成して、新規事業の可能性について調査・検討を始めました。
新規事業の可能性を探るワーキンググループは、調査と検討の結果、当社にとってクラウドコンピューティングへの参入が有望であるとの結論を導き出しました。
具体的には2つの構想があり、ひとつはクラウドによる営業支援ツールの「Salesforce」を提供する米国企業の日本法人、セールスフォース・ドットコム社(以下、SFDC)のパートナーになるというもの。そしてもうひとつは、学校を顧客としたクラウドビジネスを開拓していこうというものでした。
当時、クラウドコンピューティングはまだ黎明期でしたが、SFDCはすでに海外でクラウドビジネスのトップ企業として実績があり、日本法人を設立しシステム開発もできるパートナーを探しているタイミングであったため、当社参入のチャンスがあると判断されました。また、学校を顧客とするクラウドビジネスについては、当社の発祥が教育機関にあることから、相性がよく発展性があると判断されたのです。
この構想はそのまま事業化に向けて動き出し、2010(平成22)年4月に担当部署として「新規事業推進室」を新設しました。
その後まもなく、当社はSFDCと販売協力店契約を締結し、協業に着手しました。当社の役割は国内の顧客の要望に合わせてSalesforceのカスタマイズを行うことですが、海外ではアプリケーションのカスタマイズが一般的ではなく、SFDCも経験がなかったため、当社がカスタマイズ業務の経験と技術力をアピールし、契約に至ったものです。
このビジネスは開始後3、4カ月にわたり受注のない状態が続きましたが、初の受注案件に対応したあとは、それが実績となって次々と導入依頼が舞い込むようになりました。
一方、学校を顧客とするクラウドビジネスは、日本マイクロソフト株式会社との連携により、学生情報管理システム「Dynamics CRM Online」の顧客開拓とカスタマイズを当社で行う事業です。こちらはその後、取扱製品を増やし、顧客を教育機関に限定せず企業も含めて対応するようになりました。現在は担当を開発部門に移して業務を行っています。
これらのビジネスはクラウドの黎明期から参入したため、直接取引の顧客や大企業の比率が多いのも特徴です。
クラウドビジネスを生み出した新規事業推進室は、2012(平成24)年4月に、「イノベーションサービス事業部」へと名称を変更し、同時に、ビジネスイノベーション事業本部を新設して、同事業本部の中にイノベーションサービス事業部、ソリューション開発センター、インフラソリューション事業部、営業部の4部門を置く形としました。
この組織改定によって新規事業創出のための体制が強化され、先進のトレンドを取り入れた事業についての検討が恒常的に行われるようになりました。
その後のSalesforce関連事業の成長はめざましく、2013(平成25)年にはSFDCが年間導入件数の最も多いベンダーを表彰する「Best Implementation Partner」に当社が選ばれ、順調に拡大を続けています。
発足時はわずか3名だった要員は現在、協力会社社員も含めて100名近くに増加し、担当も「イノベーションサービス事業部」を経て、「Salesforce事業部」という専門部署を設置しました。さらに2020(令和2)年にはSalesforce事業の土台を支えるために、技術者養成や人材配置、見積対応などの業務を担う「Salesforceビジネス推進室」を新設しました。
Best Implementation Partner賞の授賞式風景
ビジネスイノベーション事業本部組織図
当社が過去に株式公開の計画を立て、監査法人とアドバイザリー契約を交わした後に、2008(平成20)年のリーマンショックと2011(平成23)年の東日本大震災によって株式市場が冷え込み、計画を中断せざるを得なかったのは第4章で述べた通りです。その後、再び当社が株式公開に向けて動き出したのは、2013(平成25)年でした。
同年に策定した中期経営計画に、2015(平成27)年度までの株式上場を目標として明記したうえで、一層の成長を実現できる組織を意図し、2013(平成25)年4月に組織改定を行いました。
さらに同年6月、任期満了により筬島庶年が代表取締役社長を退任し、日立のグループ企業で社長、副社長の経験がある諸島伸治が代表取締役社長に就任しました。
同時に、アドバイザーとなった証券会社の意見を元に、「パッケージベースSIサービス」を事業の軸とした成長戦略の策定に乗り出しました。
また、監査法人と協議しながら内部統制を整備し、ガバナンス体制の構築や業務フローの整備などを推進しました。
諸島社長
当社の株式公開は当初、ジャスダックへの上場を計画していましたが、2011(平成23)年以降、東京証券取引所(東証)が審査基準を引き下げたことを受け、目標を東証二部上場に変更して、計画が練り直されました。
2015(平成27)年8月には普通株式1株につき5株の割合で株式分割を実施し、発行可能株式総数を400万株としました。
同年11月には東京証券取引所第二部への上場が承認され、同年12月11日をもって当社はついに東証二部上場を果たしました。
東証二部上場と前後して、コーポレートアイデンティティを構築し、社の一体感やイメージを目に見える形で表現していこうという動きが起こりました。それを受けて当社ではロゴマークを刷新し、社章を作成したほか、ホームページもリニューアルしました。
東証二部上場
刷新前の旧ロゴ
刷新したランドコンピュータのロゴ
2010(平成22)年よりSFDCのパートナーとなり、同社が提供するクラウド営業支援ツール「Salesforce」のカスタマイズを担当したことをきっかけに、当社は久しぶりとなる自社開発製品を生み出しました。
これに対応して、ランドコンピュータの製品群の総称を「ランドライバー」と名付け、Salesforceのプラットフォーム上で動作するアプリケーションサービスを最初の製品として販売を開始しました。英文表記は「R&Driver」で、ランドコンピュータが顧客のビジネスを導く(=Driveする)という意味が込められています。
シリーズ第1弾となったのは、販売管理アプリケーションサービス「necote(ネコテ)」です。これはSalesforceのカスタマイズを多数手がけるうちに、異なる顧客でも共通するカスタマイズ需要があることが判明したため、需要の多い機能を抽出してアプリケーション化したものです。
発売は2017(平成29)年ですが、その直後に、経済産業省が企業の業務効率化と販売力強化を支援する目的で制定した補助金制度「IT導入補助金」において、necoteが対象製品として登録されたことも手伝い、好調な滑り出しとなりました。
販売管理アプリ「necote for Salesforce」
コンピュータ技術の進展によって新たなビジネスが創出され、それにともない当社とパートナー関係を結ぶ企業が現れました。
クラウドコンピューティングの先進企業であるSFDCとは、前述した2010(平成22)年のコンサルティングパートナー契約の後となる2016(平成28)年にSalesforceライセンス販売代理店契約を締結しました。2016(平成28)年の契約では、従来のシステム導入支援事業のほかに、Salesforceのライセンス販売を当社が行うことが追加され、それによって、当社が顧客にワンストップでソリューションを提供することが可能になりました。
また、業務システム「奉行シリーズ」の製造元である株式会社オービックビジネスコンサルタント(以下、OBC)とは、2017(平成29)年にOAP Gold Partner 契約を締結しました。この契約締結により、当社は業務系パッケージ導入のスキルを活かして、奉行シリーズの機能を活用した適切な運用指導ができるコンサルタントの育成への取り組みを開始しました。同時に、認定インストラクター(OCI)の資格取得も奨励するようになりました。
翌2018(平成30)年6月には、OBCより同社の認定資格の合格者を多数輩出したパートナー企業に贈られる「OBC Partner Award 2017-2018 Implementation Award」を当社が受賞しました。
OBC partner Award 2017-2018 Implementation Awardを受賞
2015(平成27)年12月に当社は東証二部に上場しましたが、その時点で3年以内に東証一部に指定替えすることを次の目標としていました。
東証二部上場後の業績は、2015(平成27)年度が過去最高益でしたが、2016(平成28)年度、2017(平成29)年度と2期連続で不採算プロジェクトが発生し、赤字こそ免れたものの厳しい業績であったことから、一部への指定替えが危ぶまれたこともありました。
しかし、プロジェクト支援総括部を重点強化することでそれを乗り越え、2018(平成30)年5月、当社は東証一部上場を果たしました。
東証一部上場の直後となる2018(平成30)年6月には諸島伸治が代表取締役社長を退任し、それまで産業公共統括事業本部長であった福島嘉章が新社長に就任しました。
東証二部上場、その後一部への指定替えという出来事がとりわけ影響したのは、人材採用でした。上場後は応募者数が目に見えて増加し、当社が上場の目的のひとつに掲げた優秀な人材の採用による「永続性」に光が差す形となりました。
さらに2022(令和4)年4月、東証の再編による区分替えがあり、当社はプライム市場へと移行しました。
東証一部上場
福島社長
東証の再編により、株式市場の区分が「プライム市場」「スタンダード市場」「グロース市場」の3つとなり、当社はプライム市場を選択しました。その際、流通株式数や流通株式比率は上場維持基準を満たしていたものの、流通株式時価総額と売買代金については基準を満たしていなかったため、経過措置の適用期間内に上場維持基準を達成し、同時に持続的な成長と企業価値の向上を意図して、2020(令和2)年頃より積極的にM&Aに乗り出しました。
その第1号となったのが、株式会社インフリーの子会社化です。インフリーは2001(平成13)年に創業した、SAPの導入コンサルティングとアドオン開発を手がける会社で、当社はインフリーの株式を100%取得し、2021(令和3)年4月1日付けで連結子会社としました。
当社の事業の中で近年の成長率が高いのはシステムインテグレーション、インフラソリューション、パッケージベースSIなどのサービスラインで、特にパッケージベースSIの利益率が高いため、より強化したいとの施策に基づき、同社の買収に至ったものです。
SAPは多くの企業で導入されている基幹システムパッケージですが、基幹システムの先駆的な存在であっただけに、「2025年の崖」と呼ばれるシステム老朽化への対応が急がれています。2025(令和7)年を目安に対応を急ぐ企業が増加しており、中短期的な需要増が見込める事業分野であるともいえます。
当社もSAPの技術者育成を従来より行ってきましたが、育成に時間がかかるなどの課題を抱えていました。しかし、インフリーがグループに加わったことで、技術者と顧客を獲得し、SAP事業拡大の加速が期待できるようになりました。
インフリーがグループに加わったことにともない、同社の代表取締役社長には当社取締役の山村敬一が就任しました。インフリーの創業者で代表取締役社長であった脇和幸は代表を退き、取締役として引き続きインフリーの経営に携わっています。
当社では創業初期から業務に役立つ資格の取得を奨励してきましたが、近年ではさらなる強化を意図して、社の年度目標に資格取得の目標を明記するようになりました。
情報処理分野の資格だけではなく、銀行業務や証券取り扱いに関する資格なども対象で、若年層だけでなく、役職者や年配の社員に対しても資格取得が奨励されています。
2020(令和2)年3月末における資格保有者は、情報処理分野1276名、金融業務などの業務分野264人、計1540名となっています(いずれも延べ人数)。
資格保有者が多く、とくに金融系や医療系の資格保有者が多いのは当社の特徴であり、業務に精通している証として、顧客へのアピールポイントになっています。
2019(平成31)年4月より、長時間労働の是正や多様な働き方の実現を目的とした、働き方改革関連法案が順次施行されました。
当社では法案の施行に先立つ2018(平成30)年7月に「働き方改革推進室」を新設し、新時代に即した働き方の方針を定めました。方針の柱となるのは「残業の低減」「両立支援」「ダイバーシティ」「生産性の向上」です。
残業時間の低減については、働き方改革推進室が設置される以前から取り組んでおり、その効果が表れて近年は残業時間が減少する傾向にあります。
また、両立支援は社員自身の罹病や家族の介護など、生活と仕事の両立を社が支援しようというものです。
ダイバーシティは社員一人ひとりが特質を活かしながら働ける環境を整備しようというもので、具体的には性別や年齢、障害の有無などにかかわらず、誰もが働きやすい職場を目指す取り組みをしています。2019年度には、LGBTの評価指標である「PRIDE指標2019」において、ゴールドを受賞しました。
さらに、社として「健康経営」という目標を掲げ、国が定めた指標に則って社員の健康に配慮し、戦略的に取り込むことによって社員の活力向上や生産性の向上を目指しています。2020年には、「健康経営優良法人2020(大規模法人部門)」に認定されました。また、産業医の訪問回数を増やすことで社員へのフォロー体制を強化し、社員がいつでも相談できる体制を整えています。
一方、働き方に関連して2019(令和元)年12月より服装が自由化されました。それまで6〜10月のクールビズ期間を除き、男性はネクタイとスーツの着用が定められていましたが、従業員の服装もまた多様化を認めようという理由から、服装に関する規定を撤廃して自由な服装による勤務が可能となりました。なお、女性も従来よりオフィスカジュアルが認められていましたが、これを機として完全に服装が自由化されました。
働き方に大きく影響する生産性の向上施策として、開発系では、作成した成果物をランド・フレームワークとして集約整備し、再利用を推進することにしました。一方、インフラ系では、過去に作成したツールを流用する「自動化1.0」からレシピのコード化と自動構築ツールを活用する「自動化2.0」に新たに取り組んでいます。
LGBTに関するPRIDE指標・ゴールド受賞
「健康経営優良法人2020(大規模法人部門)」認定
中期ターゲット「Attack100」
DX(デジタルトランスフォーメーション)は進化した高度なITの普及によって、生活をよりよいものに変革していこうという概念で、日本では2018(平成30)年に経済産業省が「DXレポート」と「DX推進ガイドライン」を発表したことで、産業界の関心が高まりました。
当社は2020(令和2)年に「DX推進本部」を新設して、そのもとに「Salesforceビジネス推進室」と「クラウド戦略室」を設置しました。
Salesforceビジネス推進室の役割は前述した通りですが、クラウド戦略室は時代に即した新しい技術を導入して全社展開する役割を担っています。
2022(令和4)年3月、当社は株式会社NESCO SUPER SOLUTIONの株式13,400株(議決権所有割合95.7%)を取得し、同年4月1日付けで子会社としました。
NESCO SUPER SOLUTIONは2006(平成18)年の設立で、会計パッケージソフト「Super Stream」ビジネスに知見をもち、大手企業を中心に直ユーザー取引を展開している会社です。当社でもビジネスイノベーション事業本部でSuper Streamの導入支援・アドオン開発・保守を行っていましたが、2022(令和4)年の電子帳簿保存法改正や2023(令和5)年のインボイス制度開始などによって会計業務の電子化が一層進むことから、パッケージベースSI事業のさらなる強化を目的として同社の買収を決議しました。
NESCO SUPER SOLUTIONがグループに加わったことにより、代表取締役社長には、当社取締役の弘長勇が就任しました。また2023(令和5)年1月1日付けで商号変更を行い、株式会社NESCO SUPER SOLUTIONは「株式会社テクニゲート」となりました。新たな社名には、これまで培ってきたIT技術が次世代のゲートを開くという意味が込められています。
NESCO SUPER SOLUTIONのロゴ
テクニゲートのロゴ
2016(平成28)年より当社は「Attack100」と称する中期目標を策定しました。これは2021(令和3)年3月期までに「年間売上高100億円、営業利益率10%」を目指すもので、達成に向けて「成長性」「収益性」「独自性」の3つの観点に立った成長戦略を展開しています。
その中で重要課題としたのは、高い専門性を武器に、顧客にとって高付加価値のサービスを提供することにより競合他社との差別化を図り、価格競争に左右されない経営基盤の強化を図ること。
さらにクラウドコンピューティングやスマートデバイスを中心とする、成長力の高い事業領域の開拓に積極的にチャレンジし、的確な領域を選択して長期的な成長につながるビジネス基盤を構築すること。
そのためにポテンシャルの高い人材を確保し、継続的にスペシャリストを育成していくこと。
また、顧客との取引を拡大し、適正な利益を確保していくために、社員一人ひとりのマネジメント能力を強化し、プロジェクトマネジメントができる技術者を拡充していくこと。
同時に、社としてプロジェクト支援体制を強化し、システム開発の品質を上げること。
以上が成長戦略における重要課題ですが、この「Attack100」に続く中期経営計画として、当社は2021(令和3)年度を初年度とし、2023(令和5)年度を最終年度とする「VISION 2023」を策定しました。
「VISION 2023」は「積極的なM&Aの推進」「業務提携先とのさらなる連携強化」「DX(デジタルトランスフォーメーション)ビジネスの推進」「直ユーザー取引拡大と得意分野のさらなる強化」「既存SI分野のさらなる売り上げ拡大」を重点戦略項目として、2023(令和5)年3月期までにグループ全体で「年間売上高123億円、営業利益率10%」を目指すと定めています。
今後は国内人口が減少の一途をたどり、とくに若年人口の減少が著しいことから、「人材確保」が重要課題に掲げられます。またこの「人材確保」には困難が予想されていたため当社では、オフショア開発(海外への開発業務委託)、ニアショア開発(地方への開発業務委託)なども推進しています。
当社が創業した頃、コンピュータは非常に特殊な機器で、そのソフトウェアを構築する技術や知識をもつのはごく一部の人々に限られていました。その後、情報技術は飛躍的な発展を遂げて生活になくてはならないものとなり、2020(令和2)年に小学校でプログラミング教育が必修化されたことからもわかるように、将来の社会を築くうえで必須の技能となりました。
コンピュータの創生期からソフトウェア開発事業を展開し、人材育成に力を入れて技術を磨き、顧客の要望に応え続けてきた当社は、過去50年間で培ってきた強固な経営基盤のもと、時代の要請をいちはやくキャッチして、一層の飛躍を遂げるべく今後も邁進していきます。
当社は2012(平成24)年に社名を商標登録し、2015(平成27)年にロゴマークを刷新しました。
これはコーポレートアイデンティティ(CI)構築の一環として行われたものです。社名のタイプフェイス(書体)は従来のタイプフェイスの面影を残しながらもグローバルで現代的な印象となるように調整し、またテーマカラーには、知性を表すブルーと情熱を表すオレンジを選びました。これは高度な技術力と人間的な温かさを兼ね備えた企業イメージに基づく配色です。
タグラインで示された「Support your IT challenge」は、当社のブランドプロミスである「私たちは解決策(こたえ)を創造し続けるあなたのITパートナーです」を表現したものです。
CIの構築にあたっては、福島嘉章社長を含むワーキンググループと外部のブランディング会社が共同で1年ほどをかけ、当社の将来像についての議論を重ねました。そこで抽出された当社のコアエッセンスである「Next Innovation」「Creativity」「Session」「IT Leadership」「Passion」のイメージが、この新しいロゴマークに投影されています。
このロゴマークは2015(平成27)年の当社株式公開の直前に完成し、以来、ホームページや企業案内をはじめとするさまざまなメディアや配布物に展開され、当社の「顔」となっています。
©R&D COMPUTER CO., LTD.